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ガン細胞と正常細胞
ガンの発生と遺伝子の関係について考えることからはじまることにしましょう。少しばかり理屈っぽくなる部分もあります。しかし実に興味深い話です。
今さらいまさらいうまでもないことながら、ガンとは体内に発生したガン細胞が異常増殖したあげくに表明化する疾患です。
では、ガン細胞とはどんな細胞のことをいうのでしょう。正常細胞とガン細胞とはどう違うのでしょう。またガン細胞は、なぜ正常の領分をおかしてまで異常増殖するのでしょう。そもそも、正常細胞の中にあって、なぜガン細胞という異常細胞が発生してしまうのでしょう。これらはすべては遺伝子とかかわっているのです。
ガン細胞の特徴として、分裂増殖が速いということがいわれています。しかしガン細胞の分裂増殖は、必ずしも正常細胞のそれよりも速いというわけでもありません。
正常細胞の中にも、一般にいうガン細胞なみの速さで活発に分裂増殖する細胞は少なくありません。
分裂増殖の速い正常細胞には、小腸の粘膜細胞、髪の毛の毛球部細胞、血液を作る骨髄細胞、皮膚の基底細胞、生殖細胞などがあります。
ガン細胞の増殖スピードを一概に定めることはできませんが、たとえばある種の大腸ガンの細胞が増殖する速さは、正常細胞の中でも特に増殖が速いことで知られる小腸の粘膜細胞に比べて、むしろ遅いくらいです。
つまり、ガン細胞の特徴として「正常細胞よりも分裂増殖が遅い」とするのは、正確ではないということになります。正確にいうなら「ガン細胞とは周囲の都合を無視して身勝手に、無限に分裂増殖する細胞」です。その結果、かなりの速さで他の正常細胞の領分をおかして増殖してしまうのです。
ガンは細胞社会における犯罪者
たとえ話として整理することにしましょう。
正常細胞を人間にたとえるなら、社会のルールをわきまえ、周囲との調和をはかりながら社会的責任を果たす人です。
一方のガン細胞は、社会のルールを知らない、周囲と調和して社会生活を営む能力のない人です。
この両者が車を運転して一般の道路を走る場面を想像しみてください。
ルールをわきまえた人はドライバーとしても安全です。走行車線を守り、無暗にスピードを出すことなく、道路標識の指示にもしたがい、信号が赤であれば停止します。ときとして少しばかり速度違反するなど、道公法をはずれて運転することがあったとしても、道が狭いなどの危険があればちゃんと減速するし、子どもや老人の姿をみれば十分な安全確認もおこたりません。
ではルールをわきまえない人はどうでしょう。周囲の危険もかいりみずに、速度違反、車線無視などを重ね、危険きわまりない信号無視さえ恐れません。いうまでもなく譲り合いの精神は欠如し、ルールを守って走るドライバーたちの権利と安全を蹂躙します。事故を起こして、他の車や道路施設に損傷を与えて、悪くすれば歩行者に危害を与えながら、さらに身勝手な運転を続けることさえあります。
ガン細胞の場合は、ルール無視のドライバーよりもさらに厄介です。放っておくと、単に周囲の都合を無視するだけでなく、自分と同じ身勝手な仲間、「無理を通して道理を引っ込ませる」傍若無人な仲間を増やし続けます。しかも仲間を呼び寄せるのでなく、自ら活発に増殖することで増やし続けるのです。さらには仲間を増やす過程で、ルールにしたがっている正常細胞を破壊し占拠し、与えられた役目を果たすことができなくなってしまいます。これがガン細胞による正常細胞の浸潤です。
さらにもっと厄介なことには、ガン細胞は分派まで作ります。ある部分にとどまって傍若無人を繰り返していたのが、いつしか他の部分に子分を送り込み、そこでもまた勢力を拡大してしまうのです。これが転移です。
そしてついには、これが生命活動としてみれば実に不思議なことなのですが、ガン細胞は浸潤と転移を繰り返して正常細胞が生きる余地を奪い続けたあげくに、自分たちが生きる場である宿主の生命活動そのものまで終わらせてしまうのです。これが死です。
人間にかぎらずあらゆる生命の遺伝子とは、生命を育み継続することを最大・唯一の目標としています。
その最大・唯一の目標を無視し破壊を繰り返し、ルール違反を重ねる
ガン細胞とは、いったいどんなメカニズムの末に発生するのでしょう。
そのメカニズムの根本は“遺伝子の狂い”でした。
ガンは伝染する!?
時はさかのぼって1911年のころです。アメリカのベイトン・ラウスという病理学者が次のような実験を行いました。
②すると抽出液を注射されたニワトリのも同じ肉腫が発生した。
この実験結果はそれまで、「ガンは移らない(伝染しない)とされていた
常識を根本からくつがえすものと同時に、ガン発生のメカニズムを説き明かすはじまりともなりました。
その後の研究で、ガンを移したものの正体はウイルスあったことがわかります。ウイルスとは、遺伝子とそれを包むタンパク質からできている“半生物”すなわち無生物と生物の中間に位置する存在です。
遺伝子を持っているという意味では生物でありながら、しかしそれ自体で増殖することなく、遺伝子を次の世代に継承することもできないという意味では単なる物質なのです。
ウイルスは、他の生物の遺伝子を利用する、言い換えるなら他の生物の細胞に“寄生”することで増殖します。
ある種のウイルスは、こうした他の生物の細胞に“寄生“するときに、その細胞の遺伝子の一部に狙いを生じさせてガン発生の引き金を引いていたのです。
さて、ウイルスがガンを
引き起こすメカニズムが明らかにされたのは、時代もはるかに下った1976(昭51)年のことでした。
ラウスが発見したラウス肉腫ウイルスの遺伝子は、
核酸の一つであるRNA(リボ核酸)でできていて、4種類の遺伝情報が記されている遺伝子でした。
これ以降、本書ではある生物の遺伝情報全体を総合した遺伝子のことを「遺伝子」と呼ぶことになりますが、その前提でいうなら、ラウス肉腫ウイルスの遺伝子は、RNAによって記された四つの遺伝子(=遺伝子情報)であったということです
みんなが持っているガン化の引き金になる遺伝子
この「四つの遺伝子」というところにラウス肉腫ウイルスの」特徴があります。
他の、ガンを引き起さないウイルスの遺伝子は三つであるのに対して、余分な遺伝子を一つ持っていたのです。
この余分な遺伝子こそが、ガンを引き起こす“ガン遺伝子”であり、肉腫(サルコーマ)を引き起こすという遺伝子という意味でサーク(SRC)と命名されました。
1976年にこのサーク・ガン遺伝子を発見したのは、アメリカのパーマスとビショプの二人です。
彼らは、サーク・ガン遺伝子を発見すると同時に、ニワトリの正常な遺伝子の中にもサーク・ガン遺伝子とそっくりな遺伝子が存在することを突き止めました。
その結果明らかにされたのが、ニワトリの遺伝子の中のサーク・ガン遺伝子にそっくりな遺伝子がウイルスに間違って取り込まれ、その過程でニワトリの側の遺伝情報にわずかな変化が生じるというメカニズムでした。
ニワトリの遺伝子の中のサーク・ガン遺伝子に似た遺伝子は、結果的に細胞のガン化を引き起こす原因になることから“ガン原遺伝子“と呼ばれます。
しかし、このガン原遺伝子は、実はニワトリの遺伝子にのみ存在するものではなかったのです。ネズミの遺伝子にも、ネコやウマの遺伝子にも、そして私たち人間にも、同様のガン原遺伝子は存在していました。
ここで念のために確認しておくことにしましょう。ガン原遺伝子とは、正常細胞の中に存在しているものであり、そのままでガンを引き起こす遺伝子という意味ではありません。それが何らかの外的刺激によって変化したときに、ガン化の引き金になるという意味でガン原遺伝子と呼ばれているのです。したがって、ガン原遺伝子であるとしても、正常なときにその遺伝子の持っている遺伝情報は、生命活動にあって何らかの重要な役割を演じているのです。
この点から考えるなら、ガンの発生とは、あらゆる生物にとって避けることのできない、生命活動を織り成す上で必然的帰結の一つなのかもしれません。
なぜなら、ほんの少しの狂いでガンの原因となってしまう遺伝子も、生命活動には欠かすことのできない遺伝子だからです。その欠かすことのできない遺伝子のほんの少しの狂いによってガンが生じてしまうところに、
生命活動の神秘があるということもできるでしょう。つまり、細胞の分裂増殖と、細胞のガン化には、避けがたい表裏一体の側面があるのかもしれません。
ガン原遺伝子とガン抑制遺伝子
さて、パーマスとビショップによるガン原遺伝子との発見(二人は1989年のノーベル医学生理学賞を受賞)にはじまったガンと遺伝子をめぐる研究は、
その後、今日に至るまで急速に発展し、驚異的な事実が次々に明かにされてきました。そのあたりの成果を整理しておくことにしましょう。
すでにお話ししたように、人間は誰でもガンの原因となるガン原遺伝子を持っている一方で、それが狂うことでガンの発症を許してしまう遺伝子である。“ガン抑制遺伝子”を持っています。前者のガン原遺伝子に狂いを生じさせ、それをガン遺伝子としてしまうのは、すでに述べたガン・ウイルスであり、その他にはタバコの煙、食品中や環境中の発がん物質、放射線などがあります。
これから発ガン因子に共通しているのは、いずれも細胞の中に入り込み、細胞中のガン原遺伝子の部分のDNAを傷つけることで、これをガン遺伝子に変えてしまう点です。
ではガン抑制遺伝子とは何でしょう。これも結果的にガンを発生させるという意味ではガン原遺伝子と同じですが、その発生までのメカニズムに違いがあることが分かっています。
これはガン原遺伝子がガン遺伝子になる場合と、ガン抑制遺伝子がガンの原因になる場合を比較したものです。
ガン原遺伝子の場合は、1対となっている遺伝子の双方にある同種のガン原遺伝子のどちらか一方だけでもガン遺伝子化すると、そこからガンがはじまるとされています。
しかしガン抑制遺伝子では、一対となっている遺伝子の両方ともが傷つけられないかぎり、ガンの引き金になることはありません。
ガン原遺伝子が傷つくとガン遺伝子として活性化され、活性化されたガン遺伝子は異常に大量のタンパク質を作ったり、酵素活性を異常に高めたりして分裂細胞の異常を引き起こします。
ガン抑制遺伝子の場合には、その逆のことが起こると理解すればよいでしょう。つまり通常はガン化を抑制している遺伝子が傷つけられ、その活性が失われることで、タンパク質がまったく作れなくなったり、酵素活性が消失してしまった結果として、分裂細胞の異常が許されてしまうのです。